Losing ring







(どうしよう…!)

 灰色の雨雲が空を覆っている。まだかろうじて雨は降っていないが、恐らく時間の問題だろう。そんな天候の中、将は、傘も持たずに家を飛び出した。










 夏休みもそろそろ終わり、な八月下旬。
 ぴぴぴ、と鳴り響く目覚まし時計を、叩きつぶすくらいの勢いで止める。しばらくそのままの体制でモゾモゾと動きながら、あーうーとか訳の分からないことを呟く。それから意を決したように起きあがった。
 少しだけ隙間の空いたカーテン―――自分で閉めた覚えがないから、きっと功が閉めてくれたのだろう―――を完全に開ける。窓の前で大きく伸びをすると、まだ完全に醒めていない体を引きずってベッドを降りた。
 パジャマがわりのTシャツと短パンを脱ぎ捨てて、タンスから汚れても構わない洋服を選び身に着ける。部屋を出るとまず洗面所に向かって、顔を洗ってからリビングへ向かう。

(…あれ、功兄いるんだ。)

 途中、クーラーが故障しているために開け放された扉から功の部屋を覗くと、ベッドに功の姿が見えた。そう言えば今日お休みって言ってたっけ、と呟いて、ドアから離れる。
 冷蔵庫から卵を取り出して、二人分の目玉焼きを作る。その間にパンを焼いて、冷蔵庫から取り出した牛乳と共に軽く朝食。片づけまでキチンと終えてから、ボールとタオルを持って家を出た。
 いつも通りの朝、だった。










「ただいまー。」

「おかえり。」

 二時過ぎ、とりあえず昼食を食べに家に戻ってくると、まだ寝ているだろうと思っていた功の声が返ってきて少し驚く。

「功兄、起きたんだ。」

「昨日は結構早かったしな。」

 昼は食べるだろ、とソファを立ち上がりながら聞かれて、うん、と頷く。用意するからシャワー浴びて来な、と言うお決まりの台詞が、自分のどこかを見た途端に途切れた。

「…どうしたの?」

「手、どうしたんだ?」

 そう言われて、功の視線が向いている左腕を持ち上げる。自分で気付かない内に怪我でもしたのだろうか、と思ったが、特に外傷は見あたらない。それを見ていた功が、そうじゃなくて、と続けた。

「…指。付けてないのか?」

「―――…え、」



 自分の指を見て、愕然とした。

 ―――指輪がない。
 今朝も、昨晩も外した覚えはなかった。でももしかしたら、とリビングを出て自分の部屋に駆け込む。机の引き出し、ベッドの下、カバンの中…探せるところは全て探したけれど、どこにも見あたらない。

「…将?」

「どうしよう…! 指輪、なくしたかもしれない!」

 焦ったような声色でそう叫ぶ将を落ち着かせようと、功は肩に手を掛けて目線を合わせる。

「…どこで取ったのかも覚えてないのか?」

 そう問いかけると、将が首を縦に振った。

「…もしかしたら、風呂場とか、洗濯物に混ざってるかもしてないし…家中探してみよう。」

「………うん…。」

 落ち込んだ返事をする将の背中を軽く叩いて、部屋の外へ促した。



 風呂場を探し終えて出てくると、ちょうど功がダイニングから出てきた所だった。

「あったか?」

「…なかった。功兄は?」

 いくらか期待を込めて聞くと、功も首を横に振る。これで、家の中は全て探し終えた事になる。
 左手の薬指を隠すように手を握ると、将は玄関に走り出した。

「…将?」

「もしかしたら、外で落としたのかもしれない!」

「ちょっと待て! そんな格好じゃあ、」

 平気だよ、と叫んで、最後まで聞かずに飛び出していった。










 今年の三月十四日、いわゆるホワイトデーに翼から贈られたものは、翼とお揃いの細工が入った、けれど宝石のないシルバーリング。

 ―――結婚指輪、と呼ばれるもの。

 年齢的にも、…今の法律的にも、自分たちは結婚できないけれど。書類に残せないから、この結婚指輪が、一生を共にする約束の証。…それなのに。



 そんな大事なモノをなくした、自分が信じられない。










 家から出てきたときよりも、雨雲が濃くなっているような気がする。もしかしたら、雨が降るのかもしれない。けれど、そんなことを気にしている余裕は将にはなかった。

(どこでなくしたんだろう…!)

 考えても、いつから指輪がなかったのかが分からない。どうして確認しなかったんだろう、と将は唇を噛み締める。
 今朝も来た河川敷で足を止める。息を整えることもせずに、将は土手に駆け下りた。



 降り出した雨が、強く体を打つ。夏と言えども、これまでの暑さが嘘のように消えてしまった今、それは将の体から容赦なく体温を奪っていく。
 それでも諦めずに探していた将が、ゆっくりと地面から体を起こした。










 椎名、と書かれた表札の前で立ち止まる。左手の薬指を隠すように右手で握ってから、意を決したようにインターホンへ手を伸ばす。
 ピンポーン…
 聞き慣れた音が鳴り終わらない内に、インターホンから翼の声が響いた。

『…はい椎名ですッ!』

「あ、えと、風祭で…、」

『…っ、将?!』

 ブツ、と乱暴に回線が切られる。なぜか苛立ちを含んだような対応に、もしかしたら功から連絡が行って、指輪をなくしたことを怒っているのかもしれない、と思う。どうなっても良いから謝ろう、と翼の家に来たけれど、いざとなると自分が立てた仮定に震えが走る。

(嫌われたら、どうしよう―――)

 胸元に持ち上げたままの左手を、ぐ、と握りしめた。
 勢い良く目の前の扉が開く。将の姿を見た翼の目が少し見開かれる。

「…あの、翼さん、」

 言おうとした台詞を遮って、頭からバスタオルを被せられる。

「何、考えてんだこの馬鹿ッ!」

 いきなり浴びせられた大音量に、びくり、と肩を竦める。

「ごめんなさい、謝りに来たんです…。」

「良いから早く入れ!」

「…でも」

「体あっためる方が先だろ!」

 入ろうとしない将に痺れを切らした翼が、バスタオルごと玄関の中に引き込む。そのまま玄関に上げられそうになって、慌てて靴を脱いでついていく。

「…翼さん?」

 そして有無を言わさず洗面所に入れられて、戸惑いながら名前を呼ぶと、ドアを閉めようとしていた翼が振り返る。

「さっきも言っただろ、体あっためる方が先。それからじゃないと話なんか聞かないからな。」

 反論を許さない口調でそう告げた翼を、呆然と見つめてしまう。いつまで経っても行動に移さない将に、翼が眉を寄せた。

「…なに、突っ立ってんのさ? 服でも脱がせてほしい?」

 思わず服を押さえて首を横に振る。その仕草を見た翼は、リビングにいる、と告げて、今度こそ扉を閉めて出ていった。
 しばらく翼の消えた扉を見つめていた将は、困ったように洗面所内を見回した。けれど、先ほどの翼の台詞を思い出し、体を温めるために服を脱いで浴室へと向かった。










 浴室から出ると、自分が着てきたずぶ濡れの服はなくなっていた。代わりに、畳まれた翼の洋服が置いてある。
 少し戸惑ったあと、このままで出て行くわけにもいかないし、とその服を身に着ける。上着を羽織ったときに、ふわりと翼の匂いを感じて、ぎゅう、と目をつぶる。これなら翼さんが側にいるような気がして、謝りに行くのも怖くないかな、と言う考えが頭に浮かんだ。

(…って、その翼さんに謝りに行くんだけど…。)

 自分の考えの矛盾に苦笑する。首を竦めてハイネックに顔を埋めると、一度だけ深呼吸。
 唇を堅く結んで、洗面所の扉を開けた。










「…あれ?」

 覚悟を決めてリビングへ来たと言うのに、どこにも翼の姿が見あたらない。辺りを見回していると、コン、と後頭部に何かが当たった。

「早かったね。ちゃんとあったまった?」

 ハイ、とココアの入ったマグカップを手渡される。どうやら、ダイニングにいたらしい。ありがとうございます、と言いながらそれを受け取る。いつもより声が固いのは緊張しているせいだ。

「はい。」

「そ。服は洗って乾燥掛けてるから。」

 ソファに促されて、向かい合って座る。
 翼が手に持っていたカップ―――将とは違い、こちらはコーヒーだ―――に一度口を付けて、それをデーブルの上に置く。将も翼にあわせ、マグカップから手を話した。
 そして、翼の視線に促されるように口を開く。

「…あの、翼さん。」

「うん。」

 ぎゅ、と左手を握りしめる。

「翼さんからもらった、指輪のこと…なんですけど…、」

 そのまで言っただけで、翼が何かを悟ったような顔をする。その反応に、思わず将は身を固くする。



 ―――が。
 怒鳴られるかという予想に反して、翼が放った言葉は何とも軽いものだった。

「ああ、アレか。ちょっと待ってなよ。」

 言い終わるより前に立ち上がって、階段を上がって行く。



「―――…え?」

 将が反応を返せたのは、二階の方で扉の閉まる音がした後だった。










「ハイ、これな。」

 二階から戻ってきた翼が目の前に差し出したのは、もう紛れもなく、自分が今まで必死で探していた指輪。ずぶ濡れになってまで探していたそれを軽々と目の前に差し出されてしまって、どう反応したら良いのか分からなくなる。
 固まったまま動かない将を見て、翼が訝しげに眉を寄せた。

「将?」

「………翼さん、あの…これ、なんで…。」

 ここに、という言葉は、続けなくても伝わったようだった。

「一昨々日ここに来たときに、外して…そのまま置いて行っただろ?」

 未だに混乱したままの頭で必死に翼の言葉を理解して。

「―――あっ。」

 思い出した。

 そうだ、確か料理中に指輪を落としてしまって…その時は特に何事もなく見付かったのだが、また落ちると危ないから、と言って指輪を外したのだ。

 思い出した記憶に、なんで今まで忘れていたんだろう、と脱力する。その将の様子を見ていた翼が、訝しげな表情をそのままにもう一度呼びかけてくる。
 それに慌てて返事を返すと、翼の手の平から指輪を受け取った。

「良かった…。」

 先ほどの脱力とはまた別の、問題が解決したことによる安堵感に将は体の力が抜けていくのを感じた。指輪を両手に握りしめて、ソファの背もたれに身を沈める。

 けれど、それを見て苦笑していた翼の次の台詞に、将は再び身を堅くする事になる。



「―――で? 何を謝りに来たわけ?」



 …なんて言おう。あまりな結末に、思わず将は口ごもった。










「………えぇ…っと…、」

「うん。」

「………その〜…、」

 歯切れの悪い将の台詞に、ふと嫌な予感がする。翼は、将が握りしめたままの手を見ながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「―――………将。」

「…はい。」

 まさかとは思うけど、と、願いを込めて前置きする。



「それを、探してたわけ?」



「………………はい。」

 翼の願いを裏切り、将の返答は、イエス、だった。










 まじかよ、と小さく呟いて、頭を抱える。

 将が家の扉の前で予想したように、翼は功から連絡を受けていた。ただし、連絡の内容は予想とは違っていたが。



「はい、もしもし。」

『…もしもし? 風祭功と言いますが。―――翼くん?』

「はい。どうかしたんですか?」

 電話越しでは初めて聞くその声に緊張の色が感じられて、何かあったのだろうかと訪ねる。

『…将が、家を出ていったきり帰って来ない。』

「ええ?!」

 窓ガラス越しにでも雨音は届いている。窓の外を確認するまでもなく、外は大雨だ。

『それで…もしかしたら翼くんの所に行っているかもしれないと思ったんだけど…その様子じゃあいないようだね。』

 それで声が緊張していたように感じたのか、と納得する。

「ええ、来ていません。」

『…そう、か…。』

 ぼくも探します、と口を開いたのを、まるで見えていたかのように功が遮った。

『翼くんは、そのまま家にいてほしい。』

「どうして…、」

『見付けられなければ、たぶん、翼くんのところに行くと思うから。』

 そのときに君がいなかったら厄介だ。そう続けられた言葉に、翼は眉を寄せる。でも、確かに今自分は家に一人だし、すれ違っては元も子もない。
 はあ、と大きく溜息を吐くと、しぶしぶ頷いた。

「………わかりました。」



 二言三言交わして電話を切ったあと、翼はバスルームに直行した。風呂にお湯を張り、シャワーの温度を設定して、新しいバスタオルをおろす。それを持ってリビングに戻ると、バスタオルをソファの上に放り投げる。それからダイニングに入ってココアの封を切り、電気ポットのお湯の用を確認してそこを出た。
 それからも落ち着いていることなんか出来なくて、ソファに座りながらも、ずっとインターフォンの音に気を向け続けていた。時計だって、何度仰いだか知れない。

 将が訪ねてきたときの早すぎる対応や、扉を開いたときから持っていたバスタオル。濡れて訪ねてきた将を見たとき、体の体温が二・三度下がったような気がした。将は動揺していて気付かなかったようだけど、たぶん顔に出ていたと思う。

 だって言うのに、結末はあまりにもあっけなくて。
 あの動揺と時間を返せ、と思った翼に非はないだろう。










 気まずそうに顔を俯けながら、口ごもっている将に視線をやる。まだ指輪をはめずに握りしめている様子を見て、内心で溜息をつく。
 どうせ、またなくしたら嫌だから仕舞っておこう、とか思っているに違いない。

「………将。」

「…はい?」

「それ、はめずに仕舞っておこうなんて思うなよ?」

 意地悪そうだ、と前に将に言われた笑みを顔に張り付けて言う。言葉に詰まった将を見て、今度は本当に溜息をついた。

「…だ、だって…!」

 立ち上がって、反論をしようとする将の隣へ移動する。本当になくしたら嫌だし、と続ける将の左腕を取る。
 …本当に、わかってない。

「はめなきゃ、意味ないだろ?」

「…でも…、」

 その手から指輪を取って、それを薬指にはめる。そして、そこへゆっくりと顔を近付けていく。

「将がはめてなきゃ、意味ないんだよ。」

 何をするのか分からない、という将を横目に、指輪の上から、軽く音を立ててキスをした。

「――――――っ!」

 途端に顔を赤く染め上げた将に、くすりと笑う。
 もう一度、目で問うと、小さく頷いた。

「…ところで、将。」

 まだ手を掴んだままで、赤い顔をした将に呼びかける。恥ずかしそうに目で返事をする将に。にっこりと笑い掛けた。

「指輪、はずしてること、今日まで気付かなかったんだ?」

「―――えっ!」

 わたわたと言い訳をする将を意地悪く見遣る。

 外されたら本当に意味がない。この半端でなく人を惹き付ける恋人には、虫除けの意味が多いのである。
 自分と将の左手を見つめて、翼は満足そうに微笑んだ。










END...




 ………長(汗)。

 『Wedding ring』の続編(?)で、指輪をなくし、必死こいて探す将。雪の中もしくは雨の中で『体あっためる方が先だろ!』とゆう翼の台詞入り、とゆうリクエストでした。

 こんなに素晴らしいリクエストなのに、なんでこんなヘタレな文章で申し訳ありません〜!

こんな企画に参加して下さって、本当に有り難うございました!

管理人、雛谷色葉。(20020825)



 ああ、読み返すとすっげー急いでるって感じの文章…(涙)。こんなのですみませんでした〜!

雛谷(20020905、企画部屋より移動)