アンハッピーバレンタイン。







「…遅い。」

地を這うような低音で、地を這うような機嫌の翼がそう呟く。翼からやや距離をおいた所に立っている柾輝は、まだそんなに待ってねえよ、とゆう死に急ぐような台詞を喉の奥で噛み殺し、とりあえず口を噤んだ。
柾輝たちが立っているのは生活指導室の前。六助がトイレで煙草をふかしていたのをキューピーこと下山に見咎められ、六時限目から今まで延々と説教をされているのだ。と言っても、柾輝と翼がここへ来たのはほんの一、二分前のことで、普段ならば翼の機嫌を傾けるような事ではない。
…けれど、今日は事情が違うのだ。

「柾輝。」

突然の呼び掛けに喉の筋肉が引きつった。それでも、なるべく普通に応答すると、屈み込んでドアを睨んでいた翼が機敏な動作で立ち上がる。

「時間のムダ。先行くぞ。」

心の中で六助に手を合わせつつ、柾輝は静かに従った。…今日の飛葉中サッカー部に、平穏の二文字は見えそうにない。






今日は二月十五日。書く必要もないとは思うが、昨日は二月十四日、言わずと知れたセントバレンタインデーである。






『あの、翼さん。』

「なに?」

二日前の十三日、もう習慣になってしまった夜十時からの電話でのこと。
息を整えるような沈黙の後、将が改めて呼び掛けてくる。これは何かを頼むときの将の癖で、それが分かっている翼は将が言いやすい様に語調を柔らかくして応えた。けれど、受話器から 響いてきた声は、翼が予想していたものとはまったく見当違いなもので。

『チョコレート、好きですか?』

「………はあ?」

『えっ、き、嫌いですか?!』

予想外だった質問に上手く対応が出来ず、思いっきり疑問符を投げつけてしまった。その翼の声をどうとったのか、受話器の向こうから届いたのは物凄く焦った声で。

「…別に、嫌いじゃないけど?」

意味が分からないながらもそう応える。歯切れの悪い返事に込められた翼の疑問には気が付かないらしく、良かった、と小さく溜息をつくと将は先を続けた。

『翼さん明日って予定空いてますか?』

「…空いてるよ。」

『じゃあ、明日会いませんか?』

「別にそれは構わないけど…明日ってなんかあるわけ?」

チョコレートと明日。その関係がどうしても結びつかなくて、首を傾げながら将へ問いかける。すると、将は少し意外そうな、でも恥ずかしさを交えた声で小さく言った。

『…明日、バレンタインデーじゃないですか…。』

その言葉が耳に届いた瞬間、衝動的に吹き出してしまった。それは、そんな単純なことに気付けなかった自分への笑いだったのだけど、将は自分が笑われていると勘違いしたのか、いつもより少し高い声で抗議してくる。

『ひど…っ、何で笑うんですか?!』

何とか笑いを喉の奥に押し込めて、待ち合わせ場所や時間などを他の話も交えながら話し合う。明日な、とゆう翼の言葉に、将が返事をしたのを耳で確かめてから電話を切った。






その翌日、つまり原因である十四日。
制服のまま待ち合わせ場所に着いた翼は、重いスポーツバッグを抱え直しながら時計を仰ぐ。いつも通りに待ち合わせ時間より五分前なのを確認すると、太い柱に背中を預けた。

…遅い。
いつもは待ち合わせ時間までは必ず来る将が、もう待ち合わせの時間をとっくに回っているとゆうのに来ない。一度家に電話をしてみたが、誰も出なかった所を見ると家にはいないのだろう。
翼は時計を仰ぎ、一時間が経ったことを確認するとその場所から離れた。
その日の夜、電話は鳴らなかった。






そして今日。
部活を終えた翼は、汚れたシャツを脱ぎ捨てるとロッカーの中に叩き込む。そんな様子をやや離れた位置から見ていた柾輝は、自分の着替えをさっさと済ますと携帯を持って静かに部室を出た。
メモリから将の番号を呼び出し発信する。面白くない役割だと思うが、部長の機嫌は部の存続に関わるので放っても置けない。

『はい、もしもし。』

長めの呼び出し音のあとに届いた将の声が、覚えにある声より軽く掠れている。それに驚いたせいで、対応が少し遅れてしまった。

「…あ、黒川だけど。」

『黒川くん?! …どうしたの?』

聞き間違いではなくやはり掠れている将の声で、だいたいの事情が分かった柾輝は、少し考えながら言葉を返す。

「…昨日、つーか翼のことで。」

『昨日って…あっ、あの翼さん怒ってた?!』

「かなり。」

正直にそう告げると、受話器の向こう側で将がどうしよう、と絶望的な声で呟いたのが聞こえた。

『あのさ黒川くん、翼さんに謝っておいてもらえないかな。』

「…別に構わねえけど。なにやったんだよ?」

『あのね、昨日ぼく翼さんと会う約束をしてたんだけど…その日の朝に熱出して…。』

それで行けなかったんだ、と静かに言った。予想通りの展開に、柾輝は考えを巡らせる。

「風祭、これから何か用事ある?」

『えっ、あ、ううん。まだ熱あるから。』

ふと横目だけで部室のドアを見る。そろそろ切り上げなければ翼が出てきてしまうな、と頭の端で考えて視線を戻した。

「前言撤回。やっぱ自分で謝れよ。」

『えっでも』

「風祭の変わりに謝ったらシバかれんの俺だけど。」

ぐ、と言葉につまった将を喉の奥で笑うと、じゃあ頑張れよと告げて電波を遮断する。ストラップの付いていない携帯を耳から離し、意味もなく携帯の液晶を眺めていた柾輝は、携帯を鞄に押し込むと部室のドアを開けた。

「翼、ちょっと付き合えよ。」

ちょうど荷物をまとめ終わって、鞄を肩に掛けていた翼の腕を掴む。眉を寄せた翼が口を開く前に部室から引きずり出して、そのまま駅へ向かった。






「おい。」

「…なんだよ?」

背中に刺さるオーラを感じつつ、なるべく整然と返事を返す。現在位置は将の住んでいるマンションのエレベーターの中。エレベーターに乗り込んだは良いが、よく考えたら将の家が何階に位置するのか知らない事に柾輝は気付く。

「…風祭って何階だ?」

「なんでぼくに聞くんだよ。」

「知らねえのかよ?」

「…703!」

眉間に寄せた皺を深くして翼がそう叫ぶ。明日の自分の身を案じながら、柾輝は七階のボタンを押した。






「…は?」

「だから、俺はここで帰る。…悩んでるなんてあんたらしくないぜ。」

「なん、あっ、おいちょっと待て…!」

ガシャン、と重い音をたててエレベーターのドアが閉まる。
下がっていくエレベーターをガラス越しに眺めていた翼は、覚えてろよ、と低く呟くと体を将の部屋の方へ回転させた。
自分でも、らしくないことに苛ついていると思っている。あの真面目な将のことだから、何か理由があったのだろうとは思う。電話がなかったと言っても、自分から掛けなかったのも事実だし、一概に将を責めることはできない。
ドアの前で立ち止まり、本当にらしくない、と思いながらインターホンを押す。

『…はい。』

少し長めの間の後に、スピーカーから将の声が響く。その掠れた声に、あれ、と眉を寄せた。

「ぼくだけど。」

『………えっ、な、つ、翼さん?! 今ドア開けます!』

言い終わるが早いか、ブツ、と回線が途切れバタバタと将の足音が近づき、目の前のドアが開ける。翼は、ドアを開けた将を見て思わず顔をしかめた。頬が紅潮していて、目尻が少し赤い。

「…将。」

「えっ、はい。」

「熱は?」

「…えっと、37度5分くらい…ですけど。」

はあー、と深く溜息をつく。額に手を当てて前髪を掻き上げると、将の手を掴んで勝手に玄関へ上がり込んだ。リビングを通り抜けて扉が開いたままの将の部屋に入り、そこで将の手を離す。

「ホラ寝る! まったく普段から気を付けてないから風邪なんかひくんだよ。何か食べた?」

ベッドに潜る将を助けながらそう問いかける。

「あ、いいえ。」

「…台所勝手に漁るよ。何か作ってくるから。薬どこにあんの?」

「えと、薬はさっき飲んだんですけど。」

掛け布団を整えていた手が思わず止まる。

「…何も食べないで?!」

「は、はい。」

怒る気すら失せて、将の枕元に手をついたまま項垂れる。気の遠くなるような会話から察するに、どうやら本当に基礎から風邪に対する処置を教え込まなければいけないらしい。

「…胃に何もない状態で薬なんか飲んだら胃ぃ荒らすだろ?!」

「えっ、…そうなんですか?」

基本中の基本だろバカ、と項垂れた体勢のままでつぶやく。気を取り直すようにもう一度溜息をついてから、台所へ向かうために顔を上げた。
と、将が翼の袖を掴む。

「将?」

「…あの…。」

「なに?」

「…昨日の…こと、…怒ってますか。」

翼は、そうだった、と思い出す。確か、ここへ来たとき自分は怒っていた筈なのに。すっかり忘れてしまっていた。

「ごめんなさい、あの。」

謝罪を述べようとする将の額へ手を伸ばすと、叩かれると思ったのか将は身をすくめて堅く目を閉じた。そんな将の様子に苦笑しながら、翼は将の額へ唇を寄せる。

「つっ、翼さ」

「怒ってるよ。」

反論を遮って真面目な顔でそう告げる。将の顔に緊張が走ったのを見て、意地悪く唇の端を持ち上げる。



「…あとで、ちゃんと償ってもらうならな?」



耳まで赤くした将を見ながら、柾輝には感謝しないとな、と思った。






HappyValentine !



バレンタインおめでとう(違)。場面転換のしすぎでなにがどうなってるのかサッパリですね。黒川くんがすごいエセに…。好きなんですけどねー(聞いてない)。

最後まで読んでくださって有り難う御座いました。
雛谷。