ケーキと怪我と恋人と







 右手にスーパーのビニール袋、左手には手紙やら請求書やらを持って、将はアパートの廊下を歩いていた。
 袋の中で、まだ液体のままの生クリームが揺れる。その音を聞くたびに、楽しさと緊張が入り混じった複雑な気分になった。

 あれだけ練習したんだからきっと上手くいく。でも失敗したらどうしよう? だけどあれだけ練習したんだから…、と将の思考は堂々巡りをしていた。

 椎名・風祭と表札のある扉の前に立ち止まり、ジーンズから鍵を取り出して開錠する。

「ただいまー」

 返事がないことは分かっていたが、習慣で扉を開きながら部屋の中に声をかける。予想通り応答がなくて、翼がまだ帰ってきてはいないことに将は息をついた。
 昨日の夜に聞いた予定の通り、あと三時間ほどは帰って来ないだろう。

(良かった。やっぱり驚いてもらいたいし)

 そんなことを考えながら玄関に足を踏み入れようとしたとき、左手に持っていた請求書が滑り落ちてしまう。

(―――あ)

 薄い紙は風に流されながらもそう遠くないところへ落ちた。
 扉を押さえていた右手を外すと、その手を枠に掛けて扉の脇にしゃがみこむ。ひらひら揺れる請求書に指を伸ばした瞬間、背後から強い風が吹き―――

 勢いよく、扉が閉まった。






「そこに思いっ切り挟まれた、と」

 説明の最後を引き継いだ翼に、そうです、と頷く。
 憂いを滲ませた視線が右手へと注がれて、将は居た堪れなくなった。自分の不注意が原因で、翼がこんな表情をしているのだと思うと心が痛い。
 病院で手当てを受けた右手には、大袈裟に思えるほどの包帯が巻かれている。事故の直後に驚いて手を引き抜き、傷を広げてしまったせいだ。

「骨とかに異常は?」
「ありませんでした。一週間くらいで包帯も取っていいそうです」

 翼を安心させるようにひらひらと右手を振ってみせる。
 まだ血が止まっていないのか傷口が脈打つのを感じるけれど、耐えられないような痛みはない。扉が比較的軽い素材だったおかげで、それほど深い傷にはならなかったのだ。

「………いっそ粉砕骨折くらいの痛い目を見たらよかったのかもね」

 向かいのソファへ腰掛けた翼が、身を乗り出しながらそんな恐ろしいことを呟いた。なんとなく恐怖を覚えて身を引きかけた将を、追いかけるように伸ばされた翼の腕が捕らえる。
 ローテーブル越しに抱き込まれて、将は思わず息を詰めた。

「…つ、翼さん?」
「―――人がどれだけ心配したと思ってんの」

 肩の辺りで、翼が息をついたのが分かった。包帯を巻かれた右手を初めて見たときの、血の気の引いた表情が目蓋の裏によみがえる。

「大事に至らないでよかった」

 存在を確かめるように強く抱きこまれて、翼の肩口に顔を埋めながら、すみません、と将は呟いた。再度居た堪れなさを感じて、唇を噛み締める。
 すると沈みかけた空気を感じたのか、腕を緩めた翼が明るい笑顔を浮かべて見せた。

「まあ過ぎたことを言っても仕方ないね。そろそろ夕飯の準備を始めないといけないし」
「あ、僕も手伝…っ」

 手の平で額を押し退けられて、ソファの背もたれへ倒れこむ。

「そんな手で動き回られたら気が散るっての」

 正論だったが、心配をかけておいて自分だけ何もしないというのは気が引ける。額を左手でさすりながら口ごもると、翼は溜息を落としたあとで苦笑した。

「…じゃあ、服着替えたら適当に飲み物買ってきて」






 自室のドアを閉じて、それに寄りかかりながら将は溜息をついた。持ち上げた右手の包帯、その下から伸びる袖に固まって変色した血痕がついている。

(………なんでこんな日に)

 こんな―――二人分の誕生日を祝う日に怪我をするのか。



 翼と将の誕生日は、一足違いでやってくる。
 学生の頃は、なるべく会う機会を増やそうと別々に祝っていたが、同居するようになってからは生活費を考慮して二人分まとめて祝うことになっていた。
 外食に行くこともあるし、今回のように家で少し豪華な夕食を作ることもある。

 しかし、そのどちらの場合でも、誕生日にはつきものの(少なくとも将にとってはそうだった)バースデーケーキはなかった。

 翼が甘いものを苦手としていて、市販のケーキを食べないからだ。将もそれほど甘いものを好むわけではなかったし、翼にはそれが習慣なのだろうと、誕生日にケーキがないことを当たり前に思っていた。

 ―――が。

 一ヶ月ほど前にした玲との会話の中で、将はそれが間違いだったことを知る。毎年、玲の作った誕生日ケーキを食べるのが習慣だったというのだ。



(せっかく作り方教わったのになあ………)

 将は話を聞いた直後に、その場で作り方を教わる約束を取り付けた。それまでお菓子など作ったことはなかったが、玲の根気ある指導と細かなレシピのおかげで、一人でも作れるまでに上達したのだ。

(玲さんに謝らないと)

 玲は結果を報告することを条件に引き受けてくれたのに、申し訳ないと将は思う。
 予定では翼が帰ってくる前に作り上げるはずだったが、怪我をして病院に行っているうちに時間がなくなってしまったのだ。―――たとえ時間があったとしても、ケーキ作りなど片手で出来る作業ではないが。
 買ってきた生クリームやら苺やらも、結局は無駄になってしまった。病院から帰ってきた後で戸棚や冷蔵庫の奥に隠したけれど、今日作れなければまったくもって意味がなかった。

 そのケーキで、誕生日を祝いたかったのだから。

 のろのろと歩いて箪笥から代えの洋服を取り出すと、利き手が使えないことに少し不自由しながら袖を通す。上着を羽織り、財布だけを持って重い足取りで部屋を出た。

(喜んでもらえると思ったのにな)

 いつも翼は自分を喜ばせてくれるから、そのお礼をしたかったのだ。それなのに自分から機会を壊してしまうなんて、と将はもう一つ溜息を落とした。










 冷蔵庫を開けながら、ようやく指先に血の気が戻ってきたことを翼は感じた。
 出迎えてくれた将の右手に包帯を見たときの、自分の心情はとても言葉では言い表せない。サアッと全身が冷たくなって、一瞬息が詰まった。

 どこか危なっかしいところのある将は、普段から小さな生傷が絶えない。夢中になると周りが見えなくなってしまうために、ヒヤリとさせられたことは数え切れないほどだった。
 そのため、いつか大怪我をするのではと危惧して、翼はいつも気を付けるよう将に喚起していたのだ。

 ―――だと言うのに医者に掛かるほどの怪我を負った将へ、軽症だったことの安堵と共に、思わず嫌味が口をついてしまったのは許して欲しいと翼は思う。

 そんなことを考えながら冷蔵庫を漁っていた翼の耳に、いってきます、という弱々しい声が届く。玄関を振り返りながら、気を付けてと返した。玄関の扉の開閉音を聞いてから、視線を冷蔵庫の中へ戻す。
 そのとき、ふと見慣れないものが眼に入った。
 やたら奥にあるそれを手にとって眺める。見事なデコレーションケーキがプリントされた、200mlの紙パック。

(生クリーム………?)



 翼は腕を組んで、ダイニングテーブルを見下ろした。その上に並べられているのは、生クリーム、苺、無塩バター、グラニュー糖…、果ては焼き型やふるいなど。

 どれも以前のキッチンには完備されていなかったものだ。
 自分に買った覚えがないので、これらを買い揃えたのが将であることは確かだろう。

(お菓子…てか、ケーキの材料?)

 自分で作ったことはないが、作っているところを見たことはあるためそのくらいは分かる。だが、なぜそんなものがここにあるのかが分からない。
 自分はもちろんだし、将もケーキを焼いたりは―――

(………そういえば、)

 ここ最近、将が甘ったるい香りをまとって帰って来る事があったな、と翼は思う。たいして気に留めていなかったが、あれはお菓子の匂いだったのではないだろうか。

(今日のために、ケーキを作ろうとしてた…?)

 わざわざ手作りであるのは、市販のケーキを食べれない自分のためだろうか。ついこの間、玲に「幸せ者ね」とからかわれたのを思い出して、翼は頬が緩むのを感じた。
 将が自分のために作ったケーキを食べてみたいし、―――それで誕生日を祝ってもらいたい。

(どうしようかな)

 気付かなかったことにするのは決定事項として、今晩の予定を延期する理由は何がいいだろう。そんなことを考えながら、翼はケーキの材料をもとあった場所へ戻した。



 将の怪我が完治したあと、二人はケーキと共に誕生日を祝う。その様子を将は忠実に玲へ報告し、翼は散々からかわれることになるのだが、それはまた別の話ということで。






END...



 長いワリにまったく内容がないなオイ(遠い眼)
 二人とも偽者でごめんなさい…! 翼将から一年以上遠のいていた気が…(あわわ)。ドアに手を挟んで云々は友達と母親の不幸を勝手にネタにしました(最低)

 最後まで読んでくださってありがとうございました!

雛谷色葉(20050531)